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ウラジーミル・ナボコフの"A Russian beauty"

 Vladimir Nabokovの"A Russian beauty"を読む。
 きのう取り上げた"Razor"が、勝手に作り上げていたナボコフのイメージとは違う作風だったので、もう少し華のある話はないかと、試しに今度はこの「ロシア美人」を読んでみた。
 1900年生まれの貴族の娘が、ロシア革命により全てを失い父親と二人、ベルリンへと流れ着く。年老いた父はそこでなんとか仕事をみつけ糊口をしのぐが、娘のほうはそこにできた亡命ロシア人社会の友人たちと昔と変らぬのんきで浮わついた生活を送る。ところがやがて父親が亡くなると、彼女は困窮し、遊び仲間とのつきあいも途絶え、しまいには新しい靴下すら買えない有様になってしまう。そんなある日、かつての遊び仲間の裕福な夫人との再会をきっかけに、みたび彼女の運命は変わっていく、というようなお話。
 一人の美人の生い立ちを、大まかなあらすじのように年代順にざっくり語っていくので、なにか焦点が定まらない感じで、いつまでこの導入部が続くのか、ナボコフってこんなに語りに芸がないのかと、途中で飽き飽きしてしまったが、「物語」が始まるのを待ちわびつつ惰性で読み進んでいったら、そのまま終わってしまった。
 これは、主人公の生活の一コマを鮮やかに切り取ってみせるといったタイプの「短編小説」ではなく、短いながら「一代記」、大河ドラマみたいなものだったのだ、と最後になってようやく気がついた。
 結末に哀切な味があるので悪感情は帳消しになってしまったが、正直なところ魅力の薄い、ただ容姿がきれいなだけの人物の伝記だった。ナボコフは、革命で失われたロシアの貴族社会に限りない愛惜の情を抱いていたのだろう。だから、昔日の美しい世界を一人の美人の人生に重ね合わせて、さりげない筆致ながら悼んでいる。彼にとっては仲間内のはやり言葉も丁寧に引用する価値があるのだろうし、主人公の意志の弱い性格も愛おしいのだろう。
 
 Yet there was a time in her life, at the end of 1916 or so, when at a summer resort near the family estate there was no schoolboy who did not plan to shoot himself because of her, there was no university student who would not … In a word, there had been a special magic about her, which, had it lasted, would have caused … would have wreaked … But somehow, nothing came of it.

 「けれど彼女の人生には盛りの時期もあった、1916年かそこらの終わり頃、一家の領地にほど近い夏の保養地で、彼女のためにピストル自殺を企てない少年はいなかったし、そうしようとしない大学生もいなかったときだ。一言で言えば、その頃の彼女は魔法じみたきわだった魅力をまとっていて、それは、もしもそのまま続いていたならば、なにかの原因となり・・なにか、よからぬことを引き起こしていたかもしれないほどのものだった。しかしどういうわけか、そんなようなことは何事も起こらなかった」

 読後、人の運命を思い、しんみりとしてしまう、印象に残る作品ではあった。
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ウラジーミル・ナボコフの"Razor"

 Vladimir Nabokovの"Razor"を読む。
 昔、軍隊仲間に「剃刀」とあだ名されていた元白衛軍将校のロシア人の男が、革命の混乱と苦難の果てにベルリンまで逃げ延び、そこであだ名が暗示するように、理髪師として生計を立てている。ある日店を訪れた一人の客を見て、彼は驚きのあまり呆然としてしまう。その男こそ、彼が復讐を夢見ていた、彼のすべての苦難の原因をつくった男に他ならなかった。そこで彼のとった行動は・・というお話。
 ナボコフといえば「ロリータ」のイメージが強すぎて、こんな直球のシリアスな短編を書く人だったのだと意外に感じてしまった。もっと唯美的だったり、幻想味やユーモアに富んだ作品を予想していたのだけれど・・きっと他の作品にはそういうものもあるのだろう。そしてこういう作風もあり、たまたま私が最初に読んだナボコフの短編がこれだった、のに過ぎないのだろうけれど。
 評判通り、文体はかなり込み入っている。こんな分詞だらけの長い構文、小難しい単語をわざわざ選んで、内容はO.ヘンリーみたいな古風なリアリズム小説なのがいささか不釣り合いの印象を受けてしまった。

 People flashed past, accompanied by their blue shadows, which broke over the edge of the sidewalk and glided fearlessly underneath the glittering wheels of cars that left ribbonlike imprints on the heat-softened asphalt, resembling the ornate lacework of snakes. Suddenly a short, thickset gentleman in black suit and bowler, with a black briefcase under his arm, turned off the sidewalk and headed straight for white Ivanov. Blinking from the sun, Ivanov stepped aside to let him into the barbershop.

 「人々は現れては過ぎていった、彼らに付き従う青い影は歩道の縁に被さって折れ曲がり、恐れ気もなく自動車のきらめく車輪の下を滑っていた。車の車輪は熱で柔らかくなったアスファルトの上に帯状の跡を残したが、それは蛇のけばけばしい編み目模様を思わせた。突然、黒い背広に山高帽、手には黒い手提げ鞄を提げた一人の小柄でずんぐりした紳士が、歩道から外れると、白衣のイワーノフのほうへまっすぐ向かってきた。陽光に目をしばたたきながら、イワーノフは彼を床屋に迎え入れるために脇へよけた」

 この作品を読んだ限りでは、ボウルズやオコナーの作品ほどの感銘は受けなかったが、多彩な作風の作家ということでもあり、またサキのある種のものほどは解読不能でもないようなので、ぼちぼち他も読んでいきたいと思っている。

タンジェント・ピアノで聴くシューベルト

 タンゲンテンフリューゲル、もしくはタンジェント・ピアノという楽器をご存じだろうか。チェンバロが鍵盤楽器の主役の座をピアノへ明け渡すまでの、さして長からぬ期間に生み出された様々な鍵盤楽器のうちの一つで、18世紀半ばから19世紀初頭にかけての短い間に、ごく少数が生産されたに過ぎない過渡期の楽器であるらしい。
 この楽器を所蔵する上野学園大学のウェブサイトに解説があったので、冒頭を引用すると、
 「タンゲンテンフリューゲル(英語名タンジェント・ピアノ)は、ピアノと同様、有鍵打弦楽器だが、ハンマーの代わりに、タンゲント(英語名タンジェント)と呼ばれる木片で打弦して発音する。タンゲンテンフリューゲルは、鍵盤楽器の需要がチェンバロからフォルテ・ピアノに移りつつあった18世紀中頃に、ドイツのレーゲンスブルクで、オルガン建造家のヨーハン・フランツ・シュペートによって草案された」
 とのこと。
 この楽器でシューベルトのピアノ曲を弾いたCDを聴いた。

tangentenflugel.jpg
Schubert: Klaviermusik
(Potvlieghe Historic Recording PHI-CD97009)

 「楽興の時」と、四手のための「ハンガリー風ディヴェルティメント」が収録されている。演奏は、この楽器を復元製作したヨリス・ポトフリーヘ Joris Potvliegheと、Miyako Miyamotoという人。CD自体、ポトフリーヘの自主製作盤のようなもののようだ。
 一聴、衝撃的なほど、予想されるピアノとは異質な音。フォルテピアノのくぐもった音とはまるで違い、チェンバロ寄りの音だが、ちゃんと強弱はついている。なにか、不思議な、郷愁をかき立てられるような音だ。おもちゃのピアノのような、場末の見世物小屋にかかっていた何ともしれぬ楽器の演奏のような、ヘルツォークのヨーロッパを舞台にした小さな映画の背後に鳴っていた音楽のような音。
 速いパッセージではチェンバロに似るが、ゆっくりした部分では、東ヨーロッパの民族楽器のツィンバロンを思わせる音だ。私はこのツィンバロンが好きで、チェコの「ツィンバルカ」というツィンバロン音楽ばかり流しているネットラジオ局を家にいる間ずっとかけていた時期があった。人形町のロイヤルパークホテルのロビーで、フィドル、クラリネット、ツィンバロンという編成のジブシー楽団が演奏しているのに出くわしたこともあった。私は彼らのすぐそばに立って、ツィンバロン弾きばかり眺めていた。
 そんなようなことを思い出しながら、この奇妙な音でシューベルトが聴けたことを喜んだ。普通のピアノよりもずっと、東欧的、民衆音楽的に響くのがとても面白い。もちろん、もともとそのような要素の強い曲が選ばれてはいるわけである。
 この楽器で弾いたバルトークなども聴いてみたい。いやむしろこれに向かい自分の拙い指で、バルトークの「ソナチネ」でも弾いてみたいと思わされたことだった。

シオドア・スタージョンの"Bianca's hands"

 前回のオーツを読んでいて、文体にどこか似たところがあるような気がして思い出した、Theodore Sturgeonの"Bianca's hands"を読んだ。
 シオドア・スタージョン(1918 - 1985)はアメリカのSF作家。
 私は中学生の頃、代表作の「人間以上」を読んで文字通り魂を揺さぶられる感動を味わって以来、数年間SF小説ばかり読みふけった時期があった。その結果、スタージョンのような小説を読みたければ、いわゆる純文学のなかを探さなければならないのだと知るまでに、長い遠回りをする結果となってしまった(その間ディックとバラードを知っただけでも大きな収穫だったけれど)。それはともかく、スタージョンは私に小説の持つ強烈な力と、古本屋巡りの楽しみを教えてくれた大切な作家だ(当時スタージョンの邦訳はほとんど絶版で、読みたければ足で古本屋を回って探すしかなかった。短編集「一角獣・多角獣」は伝説的なコレクターズ・アイテムだった)。
 "Bianca's hands"「ビアンカの手」は「一角獣・多角獣」所収の一篇で、作家の特徴がよく出た名品として名高いもの。主人公のランは、勤め先のスーパーにやってきた親子連れの、知恵遅れの娘ビアンカに強烈な印象を受ける。というのも、ビアンカのそれ自体独立した生き物のような手があまりに美しかったから。魅了されたランは親子の住むあばら屋に押しかけていき、そこに下宿することになる。さらにビアンカの手を完全に自分のものとするために、ついにはビアンカと結婚したいと母親に申し出るが・・というお話。
 原文はしかし独特の装飾的な文体が、馴染むまではなかなか取っつきにくい部類ではなかろうか。
 
They were lovely hands, graceful hands, hands as soft and smooth and white as snowflakes, hands whose color was lightly tinged with pink like the glow of Mars on snow. They lay on the counter side by side, looking at Ran. They lay there half closed and crouching, each pulsing with a movement like the panting of a field creature, and they looked. Not watched. Later, they watched him. Now they looked. They did, because Ran felt their united gaze, and his heart beat strongly.

 「それらは愛らしい手だった、優美な手だった、柔らかくなめらかで、雪片のように白かった、その手は雪の上に落ちた火星の光のようなピンクに薄く染まっていた。それらはカウンターに並んで横たわり、ランを見ていた。それらはそこに半ば閉じてうずくまり、めいめいが野生の生き物があえぐように脈打っていた、そしてそれらは見ていた。見つめていたのではない。のちには、それらは彼を見つめるようになった。今はただ見ていた。彼らはそうしていた、というのもランはその一致した視線を感じたから。そして彼の心臓は強く鼓動した」

 孤独と美と死と異常な愛を、贅を尽くした詩的な文章で紡ぐスタージョンの世界、魅力的だがあまり没入すると毒もそれなりにありそうな気もする。思春期の私が足を棒にして古本屋を巡ってもあまり甲斐がなかったことも、それはそれで却って良かったのかもしれない(いやいや、もう十分に手遅れでしたね・・)。

モーツァルトのピアノ四重奏曲

mozart.jpg
Mozart: Piano Quartets - Faure Quartet

 二つのピアノ四重奏曲 
 第1番 ト短調 K. 478
 第2番 変ホ長調 K. 493

 フォーレ四重奏団


 弦楽四重奏にピアノが加わったピアノ五重奏曲という曲種は、曲数は多いとはいえないものの、存在する曲の全てが名作、と言えそうなほど恵まれたジャンルで、室内楽の究極の形態である弦楽四重奏に、ピアノが華やかな彩りを添えるのだから悪い筈がない。ピアノ・トリオもそのいびつな形態が却って各奏者の名人芸を生かすことになって、楽しめる名曲が多い。ところが、その間にあるピアノ四重奏曲といえば、対照的に実に地味な存在である。名作といえばブラームスとフォーレくらいしか思い浮かばないし、それらにしたって曲は良くても人気曲の部類ではなさそうだ。
 このモーツァルトのピアノ四重奏曲が、フォーレの名作に匹敵するほどいい曲なのかどうかは知らない。ただ、録音は以前から多く出ていて、私もそれなりに多くを聴いてきた。そんなにいい曲とも思っていなかったが、悪いとも思わなかった。
 フォーレ四重奏団というのはそのフォーレの名作にあやかって名付けられたのだろう、珍しい常設のピアノ四重奏団で、メンバーは若く全員ドイツ人である。そこからして(ドイツ人なのにフランス人の名を冠している)ちょっと違和感がある上に、CDのジャケット写真がどんな層を狙ったのか分からないカジュアルさであって、聴いてみるまでは、ほとんど期待していなかった。
(付記: この文を書いた2013年当時はそう感じた、つまり、クラシックのCDのジャケットに普段着で写っている演奏家はまだ珍しかったらしい。が、2018年の今では器楽・室内楽の新譜はこういう感じのものばかりになって、すっかり普通になっている。逆に、この盤の版元であるドイツ・グラモフォンの近頃の新譜は1960年代のようなレトロ感を装ったものが多くなっていて、それがまた珍しく見えるという逆転現象が起きている)
 ところが、冒頭の数小節を聴いただけで、私にとってこの演奏は、この曲の決定版となってしまった。この演奏によって初めてこの曲の良さが分かった。
 ト短調冒頭の悲壮な全合奏があまり身振りの大きいものでなく、至って自然なのが良い(あまり大げさだとここで萎えてしまう)。リズム感がいい。合奏からまず浮かび上がるピアノの粒立ちが良くて音がきれい。そうして曲が進めば進むほど、本当に全員がうまい。時折ふわっと飛翔するようなヴァイオリンにはぞくぞくしてしまう。もう、この曲がすごい名曲、かけがえのない宝石のように思えてくる。
 直接音を生かしたタイトな、しかし適度に残響もあってギスギスしない録音もいい。
 もちろん使用しているのは現代楽器で、ジャケットからは想像しがたいほど、きっちりとした「ドイツ流」の演奏である。同世代?のアルテミスやマンデルリンク四重奏団などと同傾向の、技巧は完璧、過度な表情付けは避けて、豊かな音楽性で曲自体の良さを引き出すという行き方の団体のようだ。
 こうした演奏に出会うと、前はぴんとこなかった別のものも楽しく聴けるようになったりする。曲に対する「開眼」を導くという点で、名演奏というのはそれだけにとどまらない価値を持つものだと思う。

ジョイス・キャロル・オーツの"The Sky Blue Ball"

 Joyce Carol Oatesの"The Sky Blue Ball"を読む。
 短編集"The Collector of Hearts"所収、巻頭の一篇。ジョイス・キャロル・オーツは1938生まれのアメリカの作家で、多作で知られ、ノーベル文学賞候補として取り上げられることも多い、現代アメリカ文学を代表する一人。邦訳もいくつか出ている。
 ホラー小説の書き手としても知られる作家で、短編集の副題には"new tales of the grotesque"「グロテスクの新しい物語」とあるから、そのようなものとして臨んだ。
 郊外からニューヨークの学校に通う内気な14歳の少女が、学校の帰り道、たまたま高い塀の向こうから飛びだしてきた空色のボールを拾い、向こう側にいるのであろう持ち主に投げ返してやる。するとボールは再び塀の内側から飛び出してくる。なにかの遊びだと思った少女は、それを投げ返しているうちに夢中になってしまう。興味を募らせた彼女はしまいには塀を乗り越えて相手の「子供」に会いに行くが、塀の向こうには・・というお話。
 回想する女性の一人称の語りで、独特なうねりとリズムの、一種催眠性のある文体に引き込まれる。
 
 One day I found myself walking beside a high brick wall the color of dried blood, the aged bricks loose and moldering, and over the wall came flying a spherical object so brightly blue I thought it was a bird! ― until it dropped a few yards in front of me, bouncing at a crooked angle off the broken sidewalk, and I saw that it was a rubber ball. A child had thrown a rubber ball over the wall, and I was expected to throw it back.

 「ある日わたしは気がつくと乾いた血の色をした高い煉瓦塀の傍らを歩いていた、古い煉瓦はがたがきて崩れかけていた、そこへ塀を越えて球形の物体が飛んできたのだけれど、それがあまりに青かったので、それが私の数ヤードほど前に落ちて、でこぼこの歩道に曲がった角度で跳ね返り、ゴムのボールだとわかるまで、私はそれを鳥だ! と思った。子供が塀越しにゴムボールを投げたのだ、そして私がそれを投げ返すのを待っているのだった」

 うねりのある文体で、鋭い痛みを伴う子供時代との決別が語られる。最初から最後までひりひりとした緊張感が途切れず、色あせた風景の中にところどころさしはさまれる色彩の鮮やかさが印象に残る。本当に見事で、完成度の高い「珠玉の」短編だと思った。
 この作家はとても気に入った。今後読み込むべき一人として脳内に登録。それに文体はともかく、現代作家の英文はやっぱり読みやすい。

デュリュフレ、アーン、ヴァインベルク、ニコラーエワのフルート三重奏曲を聴く

flutetrio.jpg
One, Two, Trio (BIS-CD-1439)

 フルートとヴィオラとピアノによる三重奏という形態が一般的なものなのかどうか、寡聞にして知らない。しかしこのアルバムには、デュリュフレ、アーン、ヴァインベルク、ニコラーエワという四人の作曲家による同編成の曲が収められているので、もしかしたら案外多いのかもしれない、尤もここに納められたもので全部なのかもしれないが。
 今回このCDを聴いてみて、個人的には、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの普通のトリオよりも、こちらの編成のほうが好きだと思った。私がヴィオラ弾きだから(普通のトリオの編成が気に入らない)、という理由ではない。弦二挺とピアノという、二項対立的な異質な組み合わせに比べ、こちらは弦管鍵盤とどれも違っていてはなから融和しないところに却って違和感が少ないこと。また、矢張りヴィオラがあると中声部が充実して安定感が増す。フルートの清明でアルカイックな味わいも、華やかなピアノと渋いヴィオラに支えられて際立って聞こえる。夏向きの、さわやかな音世界でとても素敵だ。
 フルートとヴィオラとハープならばドビュッシーの名曲だが。実は、ここに収められたヴァインベルクのものも元はこの編成のものの編曲。このCDにはトリオだけでなくアーンのピアノ曲と、ピアノとフルートのための曲も含まれているので、いっそのことその場所にドビュッシーを編曲して入れてくれれば良かったのに、などとも思う。
 収録曲のうちではデュリュフレの"Prelude, Recitatif et variations, op. 3"が真っ先に印象に残る。名ピアニストのニコラーエワが作曲家でもあったことは初めて知ったが、演奏家の余技と片付けられない充実した曲で、収穫だった。
 演奏は、今井信子とRonald Brautigamはお馴染みの名手。フォルテピアノの印象が強いブラウティハムだがここではモダンピアノを弾いている。フルートのSharon Bezalyという人は初耳だったが、二人の名手にまったく遜色ない、というより主役を堂々と演じて好印象。
 BISらしい好企画で、演奏、音質とも申し分ない。愛聴盤になりそうだ。

ポール・ボウルズの"Afternoon with Antaeus"

 Paul Bowlesの"Afternoon with Antaeus"を読む。
 「アフリカの巨人」と呼ばれる格闘家? の一人語りで、異国から会いに来た旅行者との会話という体裁。一人称の語りに終始するので語り手の言葉は始めから訪問者と食い違い、次第に虚実が朦朧としてきて、なにやら血生臭い、禍々しい雰囲気になっていく。結末はこの作家に独特な、突然ブツッと断ち切られるような奇妙なもので、それでも「落ち」は明快だけれど、後味は悪い。
 全体的によく分からないのだが、この作家の文章は即物的で簡明だから、英文が読み取れないわからなさとも違う。旅人は、語り手は昔対戦した相手に敗北し、殺されたという。語り手はそんなことはない、現に自分は生きていると反論し、旅人の同国人であるその対戦相手Erakliをペテン師と非難する。
 語り手の名はNtiuzと名乗られていて、タイトルの「アンタイオスとの午後」の意味もとりにくいが、アンタイオスというのはギリシア神話に登場する巨人で、ヘラクレスによって殺されたという。ここでErakliという対戦相手の名前に意味が見いだせるようだ。さすれば当然NtiuzもAntaeusのアフリカ風? 呼び名なのだろう。
 'Argos? Never heard of it.'という台詞も冒頭近くに出てくる。アルゴスは古代ギリシアの都市で、神話の舞台である。
 ギリシア神話の世界と、アフリカが重ね合わされている作品なのだろう。それが象徴的な意味づけにとどまっているのか、パゾリーニ的な語り直しなのか、そしてこの物語自体が何を意味しているのか、勉強不足で判断しかねる。もどかしさが残る。
 こんどアポロドーロスのギリシア神話でも読んでみよう。

ダンチョフスカによるシマノフスキのヴァイオリン協奏曲

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 ポーランドのヴァイオリニスト、カヤ・ダンチョフスカKaja Danczowskaによるカロル・シマノフスキKarol Szymanowskiのヴァイオリン協奏曲集を聴く。
 一挺のヴァイオリンが巨大なオーケストラと対峙して対等に渡り合う、ヴァイオリン協奏曲という曲種はすぐれてロマン派的なジャンルだが、ピアノのそれと比べるとロマン派時代に傑作は意外に少ない。もっぱらスター・ヴァイオリニストの技巧の誇示を目的として内容に乏しい曲が量産されたことと、音楽史に残るような大作曲家たちがなぜかそれぞれ一曲ずつしか残していないことも一因と思われる。19世紀の名曲は、この曲種の愛好家にとって残念なことに、本当に数えるほどしかない。
 ところが、20世紀に入ると急にこの曲種に名作が増えるのは壮観である。1905年のシベリウスを嚆矢として、プロコフィエフ、ベルク、バルトーク、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチなどいずれも名作ぞろいだが、それらのなかにあっても、このシマノフスキの二つのヴァイオリン協奏曲はひときわ色彩的で、音楽の愉楽に満ちた傑作なのである。
 とくに第一番。印象を一言で言えば、「お伽噺の音楽」。匂いたつように甘く華やかで、後期ロマン派と印象派を一緒くたにして、ちょっぴりオリエンタリズムのスパイスを効かせたような楽しさいっぱいの、おいしい曲なのだ。あまり知られていないのが不思議でならない隠れた傑作というものがあるが、これはそうした曲たちの筆頭格だと思う。
 正直、取りとめなく聞こえるところもあって、巨大な単一楽章ということもあり形式を把握するのは難しいし、メロディも鼻歌で歌えるようなものではなくそのへんはやはりとっつきにくい感じだが、難しく考えずに色彩豊かな音楽の流れに身を任せる、という聴き方にぴったりの曲、ともいえる。丁度マーラーを楽しむように。
 録音はマイナー曲にしては少なくないが、目下のところ、ここに掲げた同国の女流名手による演奏を最も気に入っている。やや細身だが非常に表現力豊かな、濡れたように美しい音色で、聴いていると陶然となり、なにかシェヘラザードに耳元で不思議な物語を聞かされているかのような気分になってしまう。
 カヤ・ダンチョフスカは録音が少ないのが実に残念な名手で、ツィマーマンとのフランクのソナタなども素晴らしかった。
 ところで、このCDのいいところはもうひとつある。冒頭に若書きの序曲が置かれているのだが、これがもう、笑ってしまうくらい、リヒャルト・シュトラウスそっくりなのだ。元気よい開始からして、田舎の「ドン・ファン」という感じ。シマノフスキは過渡期の作曲家で作風の変遷も激しい。ヴァイオリン協奏曲などはぐっと現代音楽寄りに捉えて、やや高踏的な受け止め方もあるやに聞くのだけれど、この愉しい後期ロマン派楽曲の後では、否が応にもその延長線上で聴く次第となってしまう。そうして遅れてきたロマン派ヴァイオリン協奏曲として聴くと、これがまことに愉しいのだ。
 これは私にとってはちょっとした、お宝音源なのである。

ジョン・チーヴァーの"Reunion"

 John Cheeverの"Reunion"を読む。
 ジョン・チーヴァー(1912-1982)は1950~70年代に文芸誌「ニューヨーカー」を本拠に、アメリカ郊外の中流階級の生活を淡々と描きながら、そこに象徴的、寓意的な要素を滑り込ませて不思議な味わいのある短編を多く残した小説家。
 以前は邦訳もそこそこ出ていたが、今はほとんど手に入らないようだ。名前も、作風も似ているカーヴァーは邦訳で全集が容易に手に入るのに。私も以前からカーヴァーはよく読んだがチーヴァーはほとんど読んだことがなかった。
 受容のこの偏りはどこから来ているのか、今後少しずつでも実際に読んで確かめてみたいと思っている。人気の差は作品の優劣とは関わりがないことが多い。しかし読まれなくなっているということは作品になにか、そうなるだけの原因があるのだろう。
 "Reunion"「再会」は3ページほどのごく短い短編。ボウルズもそうだが馴染むまではとにかく、途中で挫折しないようになるべく短いものから読むことにしている。
 ある少年が休暇で海のコテージに向かう途中、ニューヨーク中央駅で一時間半ばかり乗り換えの待ち時間ができる。少年は三年前に両親が離婚して以来、一度も会うことのなかった父親と久しぶりに会う約束をする。現れた父親は大柄で見栄えが良く、少年は誰かに記念写真を撮ってほしいと思うほど誇らしく、嬉しく思うが、父親は少年を連れて入ったレストランで次々と場違いな騒ぎを起こして・・というようなお話。
 一読、これも呆気にとられるような、なにかいたたまれない気分にさせられるような作品だった。父親は当初、少年との約束を"His secretary wrote to say that he would meet me・・"「秘書が、父はいつどこで僕に会うという返事をよこした」と、秘書に書かせるような立場であることを匂わしたり、行きつけのクラブの話をしたりするが、次第に怪しくなってくる。給仕に無視されたり、片言の外国語を交えて品のない台詞を叫んだり、少年にジンのカクテルを飲まそうとして店を追い出されたりする。結局店を転々とする間に乗り換えの時間が来てしまい、それが父親との一生の別れになってしまうのだった。
 身内の恥ずかしい行動というのは本当に切ない、いたたまれない気分になるものだ。読んでいるこちらが恥ずかしさで叫びたくなるような気分になってしまった。
 要は落ちぶれた父親が、久しぶりに再会する息子に精一杯いいところを見せようとして、張り切れば張り切るほど、事態は悪い方へと転がっていくという話なのだが、これを軽い笑い話と受け止めるべきなのか、それとも・・
 この居心地の悪い感じはチェーホフの初期の小品によく似ている気がした。英文は読みやすい。今後も続けて読んでみよう。

レイナルド・アーンの自作自演集

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 ベネズエラ出身のフランスの作曲家、レイナルド・アーン Reynaldo Hahn(1874~1947)の古い歌曲集録音を聴いた。
 アーンという作曲家は恐らく、二十世紀後半を通じてほぼ忘れられた存在であったと思われる。わずかにラヴェルの同時代の同僚として、もしくはブルーストの友人としてときおり言及されるのみで、その作品を聴く機会は前世紀にはほぼ皆無だった。
 それが最近になって、比較的その名を目にすることが多くなった。以前から私も密かに偏愛してきたロマン派のディレッタント作曲家テオドール・グヴィ Theodore Gouvy(1819-1898)なども最近は交響曲全集まで出る復権ぶりだが、全体的に今のクラシック音楽市場は、従来の名演奏家の名曲路線から、無名名曲発掘路線に軸足を移して久しい。おかげでいろいろな面白い、名曲・珍曲・怪作・駄曲の類に日々接することができて喜ばしい限りだが、それらの中にあってもアーンは単なるカタログの埋め草としてではなく、アーン・ルネサンスとでも呼べそうなある種の熱気が感じられるのは不思議なことだ。何より作品の出来が優れている。今後誰もが知るような存在にはならないにしても、いずれ現在のショーソンのような立ち位置の、録音を探せばほぼすべての主要作品に接することができて、時には実演にも出くわせるような作曲家になっていくのではと思っている。
 そもそもはフランスの弦楽四重奏団では今最も気に入っている、パリジイ四重奏団がピアノ五重奏曲を録音していたのでその存在を知ったのだった。以来、時々目につくCDを購入してきた。
 そんな中、最近、珍しいヒストリカル音源のCDを入手した。それがこのアーンの歌曲集録音で(Reynaldo Hahn The Complete Recordings: ROMOPHONE 8215-2)、CD3枚のうち、CD1にはアーン自身の歌が収録されている。全てアーンが歌い、ほぼ全てに本人のピアノ伴奏がついている。
 アーンの歌曲ははじめて聴いたが、フォーレやプーランクなどと比べても非常に肩の力の抜けた、あまりクラシック音楽という感じのしない、親しみやすいもの。ノイズの彼方から聞こえてくる、それほど上手とも思われない気楽な歌いぶりには、どこか浮遊感と懐かしさと暖かみのある気取りがあって、夏の午後に冷たい飲み物でも飲みながら読書する、その傍らにかかるBGMとしてうってつけなものだった。
 ピアノと歌という単純な編成にとって、音の悪さはほとんど問題にならない(そもそもSP盤からの起こしにしては音質はとてもいい)。それにもしかしたらこれは、史上初のシンガーソングライターの録音かもしれない。興趣は尽きず、アーンという作曲家への興味もまた増した気がしたことだった。

ポール・ボウルズの"By the water"(承前)

 Poul Bowlesの短編"By the water"を読んだ。原文で8ページほどの短かさだけれど、これまで読んだのが4ページ程度の小品ばかりだったので、やや長めの印象。その印象はまたその内容からも来ていたように思う。
 見知らぬ町に夜到着した男が、まったく不案内なそこをあてどもなくさまよう。町外れの浴場で仮眠をとろうとするが、そこは地下へと果てしなく続く迷宮で、そこで出会った怪物とトラブルを起こした男は再び夜の町へと逃れ出るが・・といったお話。
 見た夢をそのまま記述したような内容で、非常に幻想的、感覚的な描写が続くので長く感じたのだった。私も時々巨大な風呂屋の夢を見ることがある。「千と千尋の神隠し」も同じような舞台だし、風呂の夢というのは一種普遍性があるのかもしれない。また、以前訪れたトルコのイスタンブールで、観光客向けでない一般のハマム(公衆浴場)に入ったことがある。そのときのことを夢に見ることが今でもあるのだけれど、それとこの作品は雰囲気がそっくりで、奇妙な感覚に襲われた。
 島尾敏雄の夢の系列の作品群や、つげ義春のマンガにも似ている。
 どうしても手探りで進むようにしか読めない外国語での読書なのが、余計不可解な印象を強めていたのかもしれない。日本語で読んだら印象はまた違うのかも。
 不思議な作品で、大学時代あたりに読んでいたら夢中になっていたかもしれない。今はもっと現実に即した中に垣間見える神秘を描いた"The Scorpion"のようなものにより強く惹かれるけれど。

ポール・ボウルズの"By the water"

 昨夜はPoul Bowlesの最初期の短編"By the water"を寝床で読みだし、すぐに眠くなって寝てしまった。
 Bowlesは今までまったく馴染みがなく、20世紀アメリカのモダニズム作家という印象しかなかったが、もともとストラヴィンスキーやプロコフィエフの影響を受けた作曲家で、モロッコに移住しその地を舞台にした小説を書きつつ隠遁生活を送った、というようなことを聞き知って興味を持った。作品は非情かつ幻想的で、「シェルタリング・スカイ」をはじめとする数冊の長編と、多くの短編がある由。半年ほど前に短編集"The Stories of Paul Bowles"を手に入れておいた。
 特別に短いものをいくつか読んだら、不思議な作風で、何ともいえない後味がある。どこか「今昔物語」「宇治拾遺物語」のような説話文学の味に近いものを感じて、とても好きになった。とはいえまだ本当に短いものしか知らないので、もっと読み込まなければなにもわからないのだが・・
 最初期の"The Scorpion"の洞窟の家にしたたり落ちる水滴の描写や不可思議な結末、比較的後期の"Kitty"の悲しいばかりのハッピーエンドなど、いつまでも心に残りそうな余韻があった。
 この作家のものは、今後も継続して読んでいくつもり。
 室内楽など多く書いているようなので音楽も聴いてみたい。
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