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都響の「作曲家の肖像」チャイコフスキーを聴く

2013/8/24 (土)
東京都交響楽団演奏会
「作曲家の肖像」シリーズVol.93《チャイコフスキー》
東京芸術劇場 開演14:00

指揮:リュウ・シャオチャ
ヴァイオリン:コリヤ・ブラッハー

チャイコフスキー
歌劇「エフゲニー・オネーギン」より〈ポロネーズ〉
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

休憩

組曲第3番 ト長調

 
 久しぶりに実演を聴いた。とはいえ思いがけず早い時期に・・という感じでもある。普通8月はクラシックのコンサートはお休みの時期なので。実はこの演奏会のこともすっかり忘れていて、都響からの当日券情報メールが来なければ行きそびれていたところだった。定期会員になっているとこういうことが時々ある。
 チャイコフスキーはかなり、苦手な部類の作曲家。暑いので出かけるのもおっくうで、どうしようか迷ったが、せっかくの券がもったいないので出かけた。
 結果、出かけて良かった。やはり実演は格別なものがある。指揮者は台湾出身のまったく未知の人だったが、個性は強くはないが曲の良さを素直に引き出す指揮で好感が持てた。
 ヴァイオリン協奏曲のソリストのコリヤ・ブラッハーという人は初めて聴く。短く刈ったごま塩頭に無精ひげの、非常にコワモテな感じのオジサンで、どんな演奏をするかと思ったら、淡々としたなかに叙情味のある、優しい音楽になっていたのが面白かった。この曲でよくある濃厚な、忘我的な演奏が苦手なので、こういうほうが好みだ。
 アンコールで弾いたバッハの無伴奏パルティータも良かった。
 最後の曲目の「組曲第3番」は初めて聴く曲だったが、なかなかいい曲だと思った。今度音源、探してみよう。

ポール・ボウルズの"You Are Not I"

 Paul Bowlesの"You Are Not I"を読む。
 ここしばらく、長編より文が難しいので苦手の(英文)短編小説を読んでみようと思っていろいろと読み散らかしているが、そのきっかけになったのは、6月頃に、ポール・ボウルズの"Kitty"を読んだことだった。この本当に短い、子供向けのお話のように平易な小品は心に突き刺さった。何とも言えない気持ちになって、それが原動力となって久しく離れていた短編小説へと再び目が向かうことになったのだった。だから、ポール・ボウルズは知ってまだ二ヶ月ほどしかたっていないのに、早くも自分の中では特別な作家になりつつある。ことさらに酷薄に、とってつけたような結末になることが多くて本当にうまい作家なのか、まだよく分からないところもあるのだけれど、読めば読むほど魅力を感じつつある。少しずつ読んでいって、いずれは「シェルタリング・スカイ」などの代表的な長編も読んでみたいと思っている。
 なんだか、ボウルズが後半生を過ごしたモロッコへも行きたくなってきている今日この頃。こういう共時性は良くあることだが、たまたまモロッコで撮影されたACIDMANの「アルケミスト」のPVをYouTubeで見て、砂漠や岩山にうがたれたような住居の窓など、心から実際にこの目で見てみたいと思った。

 "You Are Not I"は読み始めてすぐにこれは変だと気づく。若い女性の一人称の語りなのだが、異様なことをぼそぼそと語っていて、なにか建物から出て列車事故の現場へと降りていって、線路脇に並べられた亡骸の口に石を入れていくが、あまりに多いので手持ちの石が足りるか心配になった・・というところで、これは精神病院から脱走した患者の話なのだと気がついた。病院の近くで起きた列車事故の混乱に乗じて脱走した患者が、姉の住む自宅へと向かう。自宅ではすぐに追っ手に捕まりそうになるが、そこで・・というお話。
 最後は虚実が混沌とし、語りの視点も混乱して曖昧になって、何が本当のところなのかよく分からない、非常に奇怪なことになる。これも日本語訳で読むと受ける印象はずいぶん違うかもしれない。
 これは結末のとってつけた感もなく、いい作品だと思った。

 It seemed to me that life outside was like life inside. There was always somebody to stop people from doing what they wanted to do. I smiled when I thought that this was just the opposite of what I had felt when I was still inside. Perhaps what we want to do is wrong, but why should they always be the ones to decide? I began to consider this as I sat there pulling the little new blades of grass out of the ground. And I thought that for once I would decide what was right, and do it.

 外側の生活も内側での生活と同じように私には思われた。誰かが好きなことをしようとすると、それを止めようとする誰かが必ずいるのだ。その考えは、私がまだ内側にいた頃に感じていたのとは全くの正反対だと気がついて、私はほほえんだ。たぶん、私たちがしたがることというのは悪いことなのだ、しかしなぜ必ず彼らがそれを決める側でなければならないのだろう? 私はそこに座り、地面から草の新芽を抜き取りながら、このことについてよく考えはじめた。そして私は、一度くらい何が正しいことか自分で決めてもいいじゃないか、そしてそれをやってみようと思った。

サリンジャーの"A Perfect Day for Bananafish"

 J. D. Salingerの"A Perfect Day for Bananafish"を読む。
 短編集"Nine Stories"所収。サリンジャーは高校時代に何冊か読んだ。が、「ライ麦畑」は未だに読んでいない。読んでおくべきだろうか。なんか、太宰治みたいに、多感な思春期に読むべき作品のような印象がある。40過ぎたくたびれた中年の独身男が今さら読んで面白いだろうか。と、いうより、高校時代に読んだ短編集も、私には面白くなかった。この作家は合わないと思ってそれきりになっていたのだが、実際はどんなもんだろうか。
 そう思って、四半世紀ぶりにサリンジャーを読んでみた。
 すっかり忘れていたが、読み進めるうちにだんだん思い出してきた。全体に軽妙な筆致で、おしゃれな感じ。せりふが多くて、何を言ってるのかよく分からない。
 でもなんだか、昔読んだときよりは面白かったかな。昔読んだときは、なんだか、作者が登場人物に寄せる思い入れが強くて、それがうっとうしかった。今はそれもやり過ごせるようだ、あまり気にならなくなっている。
 この短編集、もうしばらく読み進めてみよう。

8/16の買い物

 暑さが続き疲れがたまっている。しかも7月の半ばあたりから、一日も休肝日をもうけることなく夜は酒を呑んでいて、我ながらこれはよろしくないのではと思い出している。でも、量的にはたしなむ程度だし、本当に体がアルコールに疲弊したら呑む気自体失せるだろう。とにかく暑さだけでもどうにか和らいでほしい。エアコンをつけると電気代がかさむのが業腹なのだが、冷房無しでは生命に関わる。
 お盆休みで、世間から離れた私の周りも不思議と休日の気配がただよっているが、当方は盆も休日も関係なく、原稿書き。なのだがなぜか、休日の気配に取り込まれてしまい、全然はかどらない。だらだらしているうちに夜になり、一献の時間となる。呑みだすともう、原稿など書けない。20代まではしらふでも酔っても同じだったのだが、今はまったくだめになった。
 
 今日は所用ついでに、お茶の水と神保町をうろつく。
 お茶の水のディスクユニオンを覗くのは恒例行事。最近はあまりCDを買うこともなくなっているのだが、寄れば必ず何かしら欲しいものは見つかる。ブリュッヘンのシューベルト交響曲集4枚組と、ツァハリアスのモーツァルト、ピアノ協奏曲集8枚組、しめて4000円也。
 三省堂で洋書や参考書を物色。東大教養学部の英語読本が二冊、カラー図版入りで豪華な造りだが、一冊2000円近いというのは高い。国立なのだから一般にもそれなりの値段で還元して欲しい。ちょっと立ち読みしただけで見送り。
 白山の生協でバーボンのつまみのギンビス「アスパラガス」ビスケットを三袋と、ローソン100で炭酸水を三本に食パン一斤。計800円也。

ガラスの心

Glass.jpg


Glass heart
Violin, Maria Bachmann Piano, Jon Klibonoff
Orange Mountain Music 7006


1. Philip Glass: Sonata No. 1 for Violin and Piano
2. Bach/Gounod: Ave Maria
3. Schubert: Sonata in A major for Violin and Piano
4. Ravel: Sonata Opus Posthume


 フィリップ・グラスは好きな作曲家の一人。どの曲を聴いても同じようなものとは思うが、例の際限ない反復から奇妙な憂愁がたち昇ってくるところに中毒性がある。時々無性に聴きたくなることがあり、そんなときに取り出してきてかけるのがこのCD。グラスの作品中でも最も叙情的で、なにか切迫したもの悲しさがある。
 第一楽章は細かな動機の反復と変形からなるグラス節だが、もの悲しさが無尽蔵に増殖していく。第二楽章は非常にメロディアスで、もうこれはミニマルというのではなさそうだ。硬質な美しさが際立っている。最終楽章はエネルギッシュな無窮動的な音楽。全篇通して、人工美と情感の深さが同居していて、あまり他では味わえないような音楽体験ができる。
 あまりにいい曲なものだから、楽譜も入手した。いつか自分でも弾いてみたい。
 このCDは他にグノーの「アヴェ・マリア」とかラヴェルの遺作ソナタといった甘口の耽美的ヴァイオリン曲と、素朴で至純なシューベルトが収録されている。この曲の配置もまた、あまり例を見ない感じで一種の悪趣味が洒落ていて、ちょっとたまらないものがあるのだった。

シャーウッド・アンダソンの"War"

 Sherwood Andersonの"War"を読む。
 短編集"Triumph of the Egg, and Other Stories"所収の一篇。
 語り手の「私」が、夜行列車の中でたまたま相席になった、ポーランドからの避難民の女性から、第一次大戦中のポーランドでの小さなエピソードを聞く。廃墟となった村から避難所へと、一人の中年のドイツ軍兵士に引率された難民の一行が歩みを進めるが、難民たちのリーダー格の老婆だけは、事ごとにドイツ兵への反抗を試みる。隙を突いて逃走を図り追いつかれると、ついにはとっくみあいのけんかを始めて・・というお話。
 シャーウッド・アンダソンは昔『ワインズバーグ・オハイオ』を愛読していたこともあり好きな作家の一人。今回短編集"Triumph of the Egg, and Other Stories"が無料のkindle書籍になっていることを発見したのでダウンロードし、邦訳で読んだことのないものから少しずつ読んでいるが、奇妙な味の作品が多いので意外に思っている。なにか、穏やかなリアリズムの印象が強かったけれどもそういえば『ワインズバーグ・オハイオ』も結構幻想味が強かったかもしれない。というより、奇妙な観念にとらわれた人たちが出てくる作品が多いので、そんな感じがするのだろう。日本語だと奇妙な論理が展開されてもさほど違和感なくさらっと読んでしまうのだけれど、英語だと自分の読み自体に疑問符がつくので、よけい奇妙さが引き立って感じられる。もしかして読み違えてるんじゃないかと不安になってくるのだ。否応なしに異化された読書体験を強いられるのも原書読書の面白いところ。
 アンダソンを読むと、その作品について云々する気があまり起きず、心の内にそっとしまっておきたい感じになるのも不思議だ。
 
 Along a country road in Poland went this party in charge of the German who tramped heavily along, urging them forward. He was brutal in his insistence, and the old woman of sixty-five, who was a kind of leader of the refugees, was almost equally brutal in her constant refusal to go forward. In the rainy night she stopped in the muddy road and her party gathered about her. Like a stubborn horse she shook her head and muttered Polish words. "I want to be let alone, that's what I want. All I want in the world is to be let alone," she said, over and over; and then the German came up and putting his hand on her back pushed her along, so that their progress through the dismal night was a constant repetition of the stopping, her muttered words, and his pushing. They hated each other with whole-hearted hatred, that old Polish woman and the German.

 ポーランドの田舎道を、この一団が、彼らを前へと促しながら重い足取りで歩くドイツ人の監督のもと進んでいった。彼は容赦なく一団に前進を無理強いした。六十五歳の老婆、彼女は難民たちのリーダー格だったが、彼女もまた、前に進むのを拒み続けることにかけては、彼と同じくらい容赦がなかった。雨の降る夜、彼女はぬかるんだ道に立ち止まり、一団は彼女の周りに集まった。頑固な馬のように頭を振りながら、彼女はポーランド語でつぶやいた。「私は放っておいてもらいたいんだよ、それだけが望みなんだ。この世で望むことは、放っておいてもらうことだけなんだよ」彼女は何度も何度もこの言葉を繰り返した―それからドイツ人がやってきて、手を彼女の背中に当て、前へと押し出した。それで暗鬱な夜をとおして彼らの前進は、停止、彼女のつぶやき、彼の押し出しの絶え間ない繰り返しとなった。ポーランド人の老婆とドイツ人は、心のそこからお互いを憎み合っていた。

ジョン・チーヴァーの"The Fourth Alarm"

 John Cheeverの"The Fourth Alarm"を読む。
 読み始めてしばらくたったときに、「ああ、これが『妻がヌードになる場合』か」と気がついた。昔、そんなタイトルのチーヴァーの邦訳短編集があったのだ。とうに絶版になっているが、これは注目を集めるために日本でつけた邦題だったらしい(しかし、むしろそんなタイトルの本、買いにくかったんじゃないだろうか)。
 郊外の比較的裕福な家庭が舞台。若く美人ではあるが、子供のしつけに関してとても厳しかったり、小学校で社会を教えたりしていた堅物の妻が、突然演劇活動にのめり込み、夫の止めるのも聞かず自らオーディションに出向いて、劇中通して全裸で、乱交シーンなどもある実験的な劇に出演することになる。夫は離婚を申し立てようとするが、先例がないと弁護士に断られてしまう。結局夫婦は別居状態になるが、ある日夫は妻の出演するその劇を見に出かける。そこで彼のとった行動は・・というお話。
 これは、見事に登場人物が「生きてない」作品だな~という印象。こんな行動に出る妻の側の必然性がまったく不明。こんなことはあり得ないし、もしあればそれは病気で、夫、親族、学校の同僚など周囲の人間が皆でしかるべき対処をすることだろう。
 これは、たぶん、60年代に隆盛をみたヒッピー運動の流行が、郊外の保守的な中流家庭にまで影響を及ぼしてきたら・・というようなアイデアで書かれたのだろう。「虚飾を脱ぎ捨て自由に生きようとする妻」と「しがらみから抜け出せない夫」という対立の図式が最後に至って非常に分かりやすい形でクライマックスを迎えるが、そうはいっても妻は離婚を拒絶しているわけで、中流家庭の恩恵は維持しつつ、好き勝手しているだけなのだから白けてしまう。結局そんなところも分かりやすく(離婚のくだり)描き出されているので、作者はそこまで計算に入れつつ、皮肉な目でこの夫婦を眺めているのだろう。でもそういう計算ずくの作品で、図式的なぶん、今となっては古さが目立つ印象を受けた。

 I didn't know what to do. I still don't know, on this Sunday morning, what I should have done. I guess I should have hit her. I said she couldn't do it. She said I couldn't stop her. I mentioned the children and she said this experience would make her a better mother. “When I took off my clothes,” she said, “I felt as if I had rid myself of everything mean and small.”

 私はどうしたらよいのか分からなかった。私はまだ、この日曜の朝にも、自分がどうしていればよかったのか分からない。彼女を叩けばよかったのだろうか。君にはそんなことはできないと私は言った。あなたがわたしを止めることはできないと彼女は言った。私が子供たちのことを持ち出すと、彼女はこのことを経験すれば自分はよりよい母親になれるだろうと言った。「わたしが服を脱いだとき」と彼女は言った。「わたしは自分がまるで、自分の嫌な、小さなところまですっかり脱ぎ捨ててしまったような気がしたのよ」

ポール・ボウルズの"Mejdoub"

 Paul Bowlesの"Mejdoub"を読む。
 "Mejdoub"とは「愚者」というような意味のアラビア語。この作品では、預言者として人々からもてなされる聖愚者の意味合いで使われている。
 奇妙な振る舞いをして預言を叫ぶ年老いた愚者が、人々からたくさんの布施を集めているのを見て、自分も真似をしてやろうと思い立った浮浪者の物語。彼は愚者の行く先々についていき、行動と言葉を学び取ってから、見知らぬ遠い街に出かけて、そこで聖愚者として「仕事」を始める。一夏でかなりの額を稼いで、雨期に入ると故郷に戻り、その金で家を買う。そんなことを何年も繰り返すうちに、遠方の街では聖愚者として有名になり、故郷の街では屋敷をいくつも構える大金持ちになるが、ある年を境に法律で放浪が禁じられると、彼は自分でも思ってもみなかった行動に出る、というお話。
 正直なところ、よく分からなかった。文章は平易で、面白く、すぐに読めてしまうのだが、結末に至るまでの経緯と、彼の心の変化がつかめない。結末自体は例によってとってつけたような、わざと酷薄にしてみせたような感じのもので、あまり重要とは思えない。その前の、子供たちとのくだりあたりがこの小説の焦点なのだろうと思うが、そのへんがうまく捕まえられないので、すごくモヤモヤする。
 これはまたしばらくたったら再読してみたい。

A man who spent his nights sleeping in cafes or under the trees or wherever he happened to be at the time when he felt sleepy, wandered one morning through the streets of the town. He came to the market place, where an old mejdoub dressed in rags cavorted before the populace, screaming prophecies into the air. He stood watching until the old man had finished and gathered up the money the people offered him. It astonished him to see how much the madman had collected, and having nothing else to do, he decided to follow him.

 夜を喫茶店や木のしたや、どこでも眠くなったときにいたところに寝て暮らしていたある男が、ある朝町の通りをうろついていた。市場にくると、そこではぼろを身に纏った一人の年老いた愚者が、預言をあたりに叫び散らしながら、人々の前を跳ね回っていた。彼は立ち止まって、その老人が騒ぐのを止め、人々が寄進した金を拾い集めるまで眺めていた。彼はその狂人の集めた金額を見て驚いた、そして他にすることもなかったので、彼は老人の後についていくことにした。

シューベルトの二つの「第10交響曲」

 シューベルトの最後の交響曲といえば「グレート」だが、これに続く最後の交響曲が、草稿の断片を集めた綴りの中から発見されている。それがここで言うところの「第10番」で、これはシューベルトの死の直後にまとめられたカタログにも、最後の交響曲として言及されていた(とはいえ実際には「グレート」に先だって作曲されたらしく、現行の作品番号も「グレート」はD944だが、こちらはD936aと少し若い)。散逸したか、破棄されたと思われていたが、オーケストレーションされていないスケッチとはいえ、ほぼ完全な状態で残っていたという。
 この曲には、録音され出版もされている版が、大別して二種類ある。
 正確には、どちらもシューベルトの真作ではないのだが、それを踏まえて、両者のアプローチには著しい違いがある。

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Schubert: Symphony in D No10, D936a
Orchestre Philharmonique de Liege, Pierre Bartholomee
(RICERCAR RIC023003)
 一方の「交響曲10番」は、マーラーの10番やバルトークのヴィオラ協奏曲のように、現存する断片をなるべく作曲家のスタイルに合わせて補完し、ともかくも首尾一貫した一個の作品としての体裁を整えたもの。イギリスの音楽学者ニューボールドによる版があり、私はマリナー盤と、この版のオーケストレーションをやや管楽器よりに補強したバルトロメーによる盤を持っている。どちらもいい演奏で、マーラーの10番ほどの違和感もなく、シューベルトの交響曲として素直に楽しめるものだ。ただ草稿は三楽章分しか存在しないため、マリナー盤はそのまま三楽章、バルトロメー盤は劇音楽「ロザムンデ」間奏曲第1番を流用して補完されている。

Berio.jpg
Berio: Realisations
Bergen Philharmonic Orchestra, Edward Gardner
(CHANDOS CHSA5101)
 もう一方は、現代音楽の作曲家ルチアーノ・ベリオによる補筆版で、「レンダリング」というタイトルでベリオの作品カタログに載っている。楽章は三つ。こちらの手法はより大胆である。シューベルトの書いた草稿の原形をある程度とどめたまま、楽想間の隙間をベリオの現代音楽風の経過句が埋めていくというもの。
 これが非常に面白い。一通りシューベルトの音楽が鳴り響いた後に、急に静まってベリオの書いた部分が入ってくるのだが、これがなにか、コンサート会場で、演奏会の前や休憩中に舞台にちらほら残った奏者たちが、それぞれ練習しているといったような風情の音楽。チェレスタなども入って奇妙に美しい静寂と、期待感のようなものが醸し出される。
 私が聴いたのは二枚で、一枚はノット指揮の「Epilog」というCD。シューベルト交響曲全集の一環で、この全集は私の聴いたうちでも最高のものだったが、この「レンダリング」も、シューベルトとベリオ各部分の描き分けなど非常に鮮やかで素晴らしい。
 もう一枚が上に掲げたジャケットのもので、こちらはベリオの編曲集。「レンダリング」とブラームスのクラリネット・ソナタの管弦楽版とマーラーの若書きの歌曲の管弦楽版が収められている。「レンダリング」はノットの方が鮮やかに思われる(こちらももちろん悪くはない)が、こちらのガードナー盤はマーラーがあまりによかったので、CD全体としてよりお勧めできるこちらを掲げておいた。