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アゴタ・クリストフの三部作を読了

 Agota Kristofの三部作"The Notebook" "The Proof" "The Third Lie"を読了した。ハンガリー人亡命者の著者がフランス語で書いた本の英訳版。一冊のペーパーバックに三作入っていて、一作あたりおよそ160ページほど。短いこともあるけれど、文がきわめて平易でスラスラ読めた。特に一作目の"The Notebook"(「悪童日記」)は中学生でも余裕で読めそう。内容はなかなか過激な描写などもあり教材向けではないかもしれないが、大人が英文読書の導入にするには最適なんじゃないかと思われた。一作ごとに少しずつ難度が増していくのも教材向けだ。
 前回「幼年期の終わり」を読了して次は何を読もうかと考えたとき、当初取り上げたのはJames Morrowの"Shambling Towards Hiroshima"という、第二次大戦中、アメリカが巨大なトカゲ型決戦兵器を開発して日本を攻撃しようとする話。フザけた話のようだったので読み始めたが、作中延々と当時のB級モンスター映画の楽屋裏話が続き、あまりにも理解不能だったため途中で挫折。続いてClifford D. Simakの"The Werewolf Principle"を読み始めたが、こちらも読みにくい割に内容が古い感じがして、続かなかった。これらを読みながら、同時に息抜きのように少しずつ読み進めていた"The Notebook"のほうに結局没入する次第となった。
 文章は平易なのに、内容は深く、小説の醍醐味を味わうことができた。三作のうちではある種寓話的、神話的な象徴化が感じられる一作目が最も出来が良く、巻が進むにつれてややナマなリアリズムと「謎解き」の興味に頼るようになる。三作は一応続き物の体裁を取っていて、力技的にツジツマも合わせてあるが、むしろ一つのモチーフを三回語り直したもののようだ。リアリズムの色が濃くなるにつれて作品世界は暗鬱になり、絶望的に閉ざされていく。最初から状況は絶望的だったが、それを一見軽々とはねのけて痛快さのあった一作目がやはり読んでいて一番面白かった。
 とはいえ一作目は上記の理由もあり読了までに13日かかり、二作目"The Proof"(「ふたりの証拠」)は10日、三作目"The Third Lie"(「第三の嘘」)は6日とだんだん短くなっていったのは、やはり面白くて、本を手放せない感じになっていったのだと思う。全部読み終えた今は、読み終えてしまったことと、内容から来る二重の喪失感に打ちのめされた気分だ。
 全くの偶然なのだが、「悪童日記」の映画が、ちょうど公開されたばかりなのを知ってビックリ仰天した。なんというタイムリーなこと・・これは観に行かねばなるまい!!

Arthur C. Clarke "Childhood's End"を読了

 Arthur C. Clarke "Childhood's End"を読み終わった。29日かかった。
 「幼年期の終わり」、SFというジャンルの「最高傑作」に近い位置づけらしい。僕はクラークは中学生の頃に「2001年宇宙の旅」を読んで、さっぱり訳が分からなかった。たぶん子供には難しいのだろうと思ったが、高校に入ったらSFからは興味が離れたので、以来縁もなく今まで過ごしてきた。
 今回久しぶりにこの作家に接したが、「分からない」というより「肌が合わない」のだと分かった。
 面白くなかった。今年原書で読んだSFでは四冊目だったが、ダントツで最下位。SFにもいろいろあるが、これが本当に正統派のSFなんだろうか。科学的な事象を描くのが主眼で、登場人物はそのための駒として動く。P.K.ディックのような、特殊な境遇を設定した上で人間を描く、文学寄りの作品が僕には面白いのだと分かった。
 タネあかしをするとつまらなくなる作品なので内容には触れないが、SFといいつつ非常にオカルト寄りなのも面白くなかった。最後は、昔からアニメ映画などによくある大風呂敷で、ああいうの、昔から受け付けなかったんだけど、これがその元ネタだったとは・・
 文章は平易で、カッチリした論理的な文だが台詞になると難しかった。こういうのはちょっと珍しい。面白いと思ったのは、台詞で誰かが冗談を言うと、ほとんど常に地の文で「そんな冗談を言った・・」と解説が入る。冗談が好きなようだがいちいちこうして説明せずにいられないところ、理系の人らしいなと感心(ちなみに、普通の小説ではユーモラスな部分は説明ではなく、笑えたりするのでそれと分かります)。そしてその「冗談」が読み取るのに一番苦労した部分だった。
 SFにせっかく再接近しているので、基本文献はとりあえず押さえたいと思っているから、読んで良かった。たぶんまた読むことはないだろうけれど・・

A Fair Maiden

 Joyce Carol Oates の小説'A Fair Maiden'を読了。7/16に読み出したので22日かかった、kindl表示で144ページの短い小説だから、いかに捗らなかったのか分かる。これの前の「モッキンバード」は250ページくらいあったのを、19日で読んだのだから...まあそれだって速いとはいえないけれど。
 ともあれ、読了できただけでも良しとせねばならない。なにしろつまらなかった。。。もう、読み進めるのがかなり苦痛で、GoodreadsやAmazonの評を見るにこれはオーツの作品の中でも評判の良くない作品らしい。それは読む前から分かっていた...のになぜ読み始めたかというと、ひとえにこれが短かったから。短編で魅せられたジョイス・キャロル・オーツだが長編は一冊も読んだことがなかった。読みたいと思っていたものの、どれも結構長いようで、この作家の、読みにくくはないが独特のうねうねした文体を300ページ以上も追い切れるか自信がなかった。ジュブナイル以外ではこの'A Fair Maiden'が一番短いようだったので、悪評の多さには目をつぶって、挑戦してみたのだった。
 話は、貧しい16歳の少女が68歳の金持ちの老人に誘惑される話。ナボコフの「ロリータ」と比べている評が多いようだったけれど、それより谷崎潤一郎みたいな話だと思った。女性側の視点から谷崎的世界を語った話というか。そしてこういう話は、女性側から見ると本当に退屈で、興ざめなものなのだった。こういう類の話は、川端康成の「眠れる美女」を極として、男の抱く幻想が過剰であればあるだけ、そしてそれが現実の関係性からかけ離れていけばいくだけ、奇怪な面白みをはらんでいくもので、女の側から語るとただの援助交際の記録になってしまうのだった。老人への嫌悪と金銭への執着が繰り返し語られ、悲惨な生い立ちと、行方不明の父親への愛惜が語られると、もう、リアリズムそのもののようで、一方の金持ちの老「芸術家」キッダー氏の胡散臭さと存在の軽薄さ、醜さが本当にやりきれなくなった。しかも物語は緩慢に、最悪の方向に進んでいくようだった。。。
 ところが、この小説、最後の最後、最後の2ページくらいになって、ついに老人の幻想が少女の糞リアリズムを圧倒し、異常きわまりない愛と死の世界が溢れ出し、全てを飲み込んで突然ぷっつりと終わりを迎える。これには驚いたし、感動してしまった。
 書評ではまさにこのラストへの苦情が多いのだが、どうもこれをミステリーやサスペンスものとして読んでいる人が多いようで、「落ちがよめてしまう」という批判が多かったのだけれど、これはそういう小説ではないだろう。谷崎的な耽溺の世界にクッキリした落ちなど必要ないし、むしろこれはクッキリしすぎているくらいだと思う。
 下世話な生活苦の話、カネの話、少女を言葉巧みに誘惑して騙す話、犯罪者まがいの親類たちの話、そういった、読んでいて苦痛な、退屈な、薄汚れた埃っぽい話が延々と続いたあとに、いきなり幻想が氾濫するのが圧倒的で、五つ星で評価をつければ一つか、ゼロかなと思っていたのが、いきなり四つ星に格上げされたのだった。さすがは長年のノーベル賞候補作家...受賞できないのもまあ、納得という感じだが。。
 

ポール・ボウルズの"You Are Not I"

 Paul Bowlesの"You Are Not I"を読む。
 ここしばらく、長編より文が難しいので苦手の(英文)短編小説を読んでみようと思っていろいろと読み散らかしているが、そのきっかけになったのは、6月頃に、ポール・ボウルズの"Kitty"を読んだことだった。この本当に短い、子供向けのお話のように平易な小品は心に突き刺さった。何とも言えない気持ちになって、それが原動力となって久しく離れていた短編小説へと再び目が向かうことになったのだった。だから、ポール・ボウルズは知ってまだ二ヶ月ほどしかたっていないのに、早くも自分の中では特別な作家になりつつある。ことさらに酷薄に、とってつけたような結末になることが多くて本当にうまい作家なのか、まだよく分からないところもあるのだけれど、読めば読むほど魅力を感じつつある。少しずつ読んでいって、いずれは「シェルタリング・スカイ」などの代表的な長編も読んでみたいと思っている。
 なんだか、ボウルズが後半生を過ごしたモロッコへも行きたくなってきている今日この頃。こういう共時性は良くあることだが、たまたまモロッコで撮影されたACIDMANの「アルケミスト」のPVをYouTubeで見て、砂漠や岩山にうがたれたような住居の窓など、心から実際にこの目で見てみたいと思った。

 "You Are Not I"は読み始めてすぐにこれは変だと気づく。若い女性の一人称の語りなのだが、異様なことをぼそぼそと語っていて、なにか建物から出て列車事故の現場へと降りていって、線路脇に並べられた亡骸の口に石を入れていくが、あまりに多いので手持ちの石が足りるか心配になった・・というところで、これは精神病院から脱走した患者の話なのだと気がついた。病院の近くで起きた列車事故の混乱に乗じて脱走した患者が、姉の住む自宅へと向かう。自宅ではすぐに追っ手に捕まりそうになるが、そこで・・というお話。
 最後は虚実が混沌とし、語りの視点も混乱して曖昧になって、何が本当のところなのかよく分からない、非常に奇怪なことになる。これも日本語訳で読むと受ける印象はずいぶん違うかもしれない。
 これは結末のとってつけた感もなく、いい作品だと思った。

 It seemed to me that life outside was like life inside. There was always somebody to stop people from doing what they wanted to do. I smiled when I thought that this was just the opposite of what I had felt when I was still inside. Perhaps what we want to do is wrong, but why should they always be the ones to decide? I began to consider this as I sat there pulling the little new blades of grass out of the ground. And I thought that for once I would decide what was right, and do it.

 外側の生活も内側での生活と同じように私には思われた。誰かが好きなことをしようとすると、それを止めようとする誰かが必ずいるのだ。その考えは、私がまだ内側にいた頃に感じていたのとは全くの正反対だと気がついて、私はほほえんだ。たぶん、私たちがしたがることというのは悪いことなのだ、しかしなぜ必ず彼らがそれを決める側でなければならないのだろう? 私はそこに座り、地面から草の新芽を抜き取りながら、このことについてよく考えはじめた。そして私は、一度くらい何が正しいことか自分で決めてもいいじゃないか、そしてそれをやってみようと思った。

サリンジャーの"A Perfect Day for Bananafish"

 J. D. Salingerの"A Perfect Day for Bananafish"を読む。
 短編集"Nine Stories"所収。サリンジャーは高校時代に何冊か読んだ。が、「ライ麦畑」は未だに読んでいない。読んでおくべきだろうか。なんか、太宰治みたいに、多感な思春期に読むべき作品のような印象がある。40過ぎたくたびれた中年の独身男が今さら読んで面白いだろうか。と、いうより、高校時代に読んだ短編集も、私には面白くなかった。この作家は合わないと思ってそれきりになっていたのだが、実際はどんなもんだろうか。
 そう思って、四半世紀ぶりにサリンジャーを読んでみた。
 すっかり忘れていたが、読み進めるうちにだんだん思い出してきた。全体に軽妙な筆致で、おしゃれな感じ。せりふが多くて、何を言ってるのかよく分からない。
 でもなんだか、昔読んだときよりは面白かったかな。昔読んだときは、なんだか、作者が登場人物に寄せる思い入れが強くて、それがうっとうしかった。今はそれもやり過ごせるようだ、あまり気にならなくなっている。
 この短編集、もうしばらく読み進めてみよう。

シャーウッド・アンダソンの"War"

 Sherwood Andersonの"War"を読む。
 短編集"Triumph of the Egg, and Other Stories"所収の一篇。
 語り手の「私」が、夜行列車の中でたまたま相席になった、ポーランドからの避難民の女性から、第一次大戦中のポーランドでの小さなエピソードを聞く。廃墟となった村から避難所へと、一人の中年のドイツ軍兵士に引率された難民の一行が歩みを進めるが、難民たちのリーダー格の老婆だけは、事ごとにドイツ兵への反抗を試みる。隙を突いて逃走を図り追いつかれると、ついにはとっくみあいのけんかを始めて・・というお話。
 シャーウッド・アンダソンは昔『ワインズバーグ・オハイオ』を愛読していたこともあり好きな作家の一人。今回短編集"Triumph of the Egg, and Other Stories"が無料のkindle書籍になっていることを発見したのでダウンロードし、邦訳で読んだことのないものから少しずつ読んでいるが、奇妙な味の作品が多いので意外に思っている。なにか、穏やかなリアリズムの印象が強かったけれどもそういえば『ワインズバーグ・オハイオ』も結構幻想味が強かったかもしれない。というより、奇妙な観念にとらわれた人たちが出てくる作品が多いので、そんな感じがするのだろう。日本語だと奇妙な論理が展開されてもさほど違和感なくさらっと読んでしまうのだけれど、英語だと自分の読み自体に疑問符がつくので、よけい奇妙さが引き立って感じられる。もしかして読み違えてるんじゃないかと不安になってくるのだ。否応なしに異化された読書体験を強いられるのも原書読書の面白いところ。
 アンダソンを読むと、その作品について云々する気があまり起きず、心の内にそっとしまっておきたい感じになるのも不思議だ。
 
 Along a country road in Poland went this party in charge of the German who tramped heavily along, urging them forward. He was brutal in his insistence, and the old woman of sixty-five, who was a kind of leader of the refugees, was almost equally brutal in her constant refusal to go forward. In the rainy night she stopped in the muddy road and her party gathered about her. Like a stubborn horse she shook her head and muttered Polish words. "I want to be let alone, that's what I want. All I want in the world is to be let alone," she said, over and over; and then the German came up and putting his hand on her back pushed her along, so that their progress through the dismal night was a constant repetition of the stopping, her muttered words, and his pushing. They hated each other with whole-hearted hatred, that old Polish woman and the German.

 ポーランドの田舎道を、この一団が、彼らを前へと促しながら重い足取りで歩くドイツ人の監督のもと進んでいった。彼は容赦なく一団に前進を無理強いした。六十五歳の老婆、彼女は難民たちのリーダー格だったが、彼女もまた、前に進むのを拒み続けることにかけては、彼と同じくらい容赦がなかった。雨の降る夜、彼女はぬかるんだ道に立ち止まり、一団は彼女の周りに集まった。頑固な馬のように頭を振りながら、彼女はポーランド語でつぶやいた。「私は放っておいてもらいたいんだよ、それだけが望みなんだ。この世で望むことは、放っておいてもらうことだけなんだよ」彼女は何度も何度もこの言葉を繰り返した―それからドイツ人がやってきて、手を彼女の背中に当て、前へと押し出した。それで暗鬱な夜をとおして彼らの前進は、停止、彼女のつぶやき、彼の押し出しの絶え間ない繰り返しとなった。ポーランド人の老婆とドイツ人は、心のそこからお互いを憎み合っていた。

ジョン・チーヴァーの"The Fourth Alarm"

 John Cheeverの"The Fourth Alarm"を読む。
 読み始めてしばらくたったときに、「ああ、これが『妻がヌードになる場合』か」と気がついた。昔、そんなタイトルのチーヴァーの邦訳短編集があったのだ。とうに絶版になっているが、これは注目を集めるために日本でつけた邦題だったらしい(しかし、むしろそんなタイトルの本、買いにくかったんじゃないだろうか)。
 郊外の比較的裕福な家庭が舞台。若く美人ではあるが、子供のしつけに関してとても厳しかったり、小学校で社会を教えたりしていた堅物の妻が、突然演劇活動にのめり込み、夫の止めるのも聞かず自らオーディションに出向いて、劇中通して全裸で、乱交シーンなどもある実験的な劇に出演することになる。夫は離婚を申し立てようとするが、先例がないと弁護士に断られてしまう。結局夫婦は別居状態になるが、ある日夫は妻の出演するその劇を見に出かける。そこで彼のとった行動は・・というお話。
 これは、見事に登場人物が「生きてない」作品だな~という印象。こんな行動に出る妻の側の必然性がまったく不明。こんなことはあり得ないし、もしあればそれは病気で、夫、親族、学校の同僚など周囲の人間が皆でしかるべき対処をすることだろう。
 これは、たぶん、60年代に隆盛をみたヒッピー運動の流行が、郊外の保守的な中流家庭にまで影響を及ぼしてきたら・・というようなアイデアで書かれたのだろう。「虚飾を脱ぎ捨て自由に生きようとする妻」と「しがらみから抜け出せない夫」という対立の図式が最後に至って非常に分かりやすい形でクライマックスを迎えるが、そうはいっても妻は離婚を拒絶しているわけで、中流家庭の恩恵は維持しつつ、好き勝手しているだけなのだから白けてしまう。結局そんなところも分かりやすく(離婚のくだり)描き出されているので、作者はそこまで計算に入れつつ、皮肉な目でこの夫婦を眺めているのだろう。でもそういう計算ずくの作品で、図式的なぶん、今となっては古さが目立つ印象を受けた。

 I didn't know what to do. I still don't know, on this Sunday morning, what I should have done. I guess I should have hit her. I said she couldn't do it. She said I couldn't stop her. I mentioned the children and she said this experience would make her a better mother. “When I took off my clothes,” she said, “I felt as if I had rid myself of everything mean and small.”

 私はどうしたらよいのか分からなかった。私はまだ、この日曜の朝にも、自分がどうしていればよかったのか分からない。彼女を叩けばよかったのだろうか。君にはそんなことはできないと私は言った。あなたがわたしを止めることはできないと彼女は言った。私が子供たちのことを持ち出すと、彼女はこのことを経験すれば自分はよりよい母親になれるだろうと言った。「わたしが服を脱いだとき」と彼女は言った。「わたしは自分がまるで、自分の嫌な、小さなところまですっかり脱ぎ捨ててしまったような気がしたのよ」
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