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8/1の夢

 昔のデパートのような薄暗くて雑然としたビル。学校として使われている。私はずいぶん長くそこの学生である。学園祭が近づいている。学園祭といってもそのビルがある町が一丸となって執り行う大規模なもの。すでにビルの中にはいろんな屋台が並んで賑やかだ。
 私は町に用事があって出かけることになった。同行者が必要なので、数階下のクラスの、以前仲良くしていた少女を誘おうと思って階段を下りていく。
 少女のいるフロアは机の類がすべて取り払われ、天井には色とりどりの飾り付けがされて何か演芸会の会場のようになっている。ここもまた人でいっぱいである。入口に立ち、少女の姿を探していると、ほかの女子たちが親しげに声をかけてくる。みな顔見知りで、こちらに注意を向けてくれるのは嬉しいけれど、以前に仲良くしていて今は離れてしまった少女をまた誘いに来たことが知られてしまうのは具合が悪い。
 それに、昔のように気安く一緒に出かけてくれることも期待はできないのだった。冷たく断られるかもしれないのだから、ほかの子たちにそんなところを見られたくはない。
 いちど出直そうと思って階段をさらに下り、ビルの外に出る。
 ビルの一階は吹き抜けになっていて、湯気がもうもうと立ち込めている。何事かと思って見ると、床が小さな長方形に区切られ、それぞれ足首くらいまで浅くお湯が張られていて、いくつかには屈強な男たちが腹ばいになって沐浴をしている。灰色一色でコンクリートがむき出しになっているのかと思ったが、よく見ると一面に石灰のような凝固したものがこびりついていて、灰色なのはその色なのだった。
 大きな柱を回りこんで様子を見に行くと、柱に取り付けられた蛇口からからお湯があふれ出している。ここは温泉で、それも相撲の力士専用なのだと説明書きにある。道理で屈強な男たちばかりだと思って見回すと、男たちはみな一様に黒い口ひげを蓄えた、トルコ人ばかりであった。
 階段をまた上りながら、昔、当たり前のようにいつも傍らにいてどこへ行くにも一緒だった少女の様子を思い出して、強い喪失感に襲われる。

アゴタ・クリストフの三部作を読了

 Agota Kristofの三部作"The Notebook" "The Proof" "The Third Lie"を読了した。ハンガリー人亡命者の著者がフランス語で書いた本の英訳版。一冊のペーパーバックに三作入っていて、一作あたりおよそ160ページほど。短いこともあるけれど、文がきわめて平易でスラスラ読めた。特に一作目の"The Notebook"(「悪童日記」)は中学生でも余裕で読めそう。内容はなかなか過激な描写などもあり教材向けではないかもしれないが、大人が英文読書の導入にするには最適なんじゃないかと思われた。一作ごとに少しずつ難度が増していくのも教材向けだ。
 前回「幼年期の終わり」を読了して次は何を読もうかと考えたとき、当初取り上げたのはJames Morrowの"Shambling Towards Hiroshima"という、第二次大戦中、アメリカが巨大なトカゲ型決戦兵器を開発して日本を攻撃しようとする話。フザけた話のようだったので読み始めたが、作中延々と当時のB級モンスター映画の楽屋裏話が続き、あまりにも理解不能だったため途中で挫折。続いてClifford D. Simakの"The Werewolf Principle"を読み始めたが、こちらも読みにくい割に内容が古い感じがして、続かなかった。これらを読みながら、同時に息抜きのように少しずつ読み進めていた"The Notebook"のほうに結局没入する次第となった。
 文章は平易なのに、内容は深く、小説の醍醐味を味わうことができた。三作のうちではある種寓話的、神話的な象徴化が感じられる一作目が最も出来が良く、巻が進むにつれてややナマなリアリズムと「謎解き」の興味に頼るようになる。三作は一応続き物の体裁を取っていて、力技的にツジツマも合わせてあるが、むしろ一つのモチーフを三回語り直したもののようだ。リアリズムの色が濃くなるにつれて作品世界は暗鬱になり、絶望的に閉ざされていく。最初から状況は絶望的だったが、それを一見軽々とはねのけて痛快さのあった一作目がやはり読んでいて一番面白かった。
 とはいえ一作目は上記の理由もあり読了までに13日かかり、二作目"The Proof"(「ふたりの証拠」)は10日、三作目"The Third Lie"(「第三の嘘」)は6日とだんだん短くなっていったのは、やはり面白くて、本を手放せない感じになっていったのだと思う。全部読み終えた今は、読み終えてしまったことと、内容から来る二重の喪失感に打ちのめされた気分だ。
 全くの偶然なのだが、「悪童日記」の映画が、ちょうど公開されたばかりなのを知ってビックリ仰天した。なんというタイムリーなこと・・これは観に行かねばなるまい!!

Arthur C. Clarke "Childhood's End"を読了

 Arthur C. Clarke "Childhood's End"を読み終わった。29日かかった。
 「幼年期の終わり」、SFというジャンルの「最高傑作」に近い位置づけらしい。僕はクラークは中学生の頃に「2001年宇宙の旅」を読んで、さっぱり訳が分からなかった。たぶん子供には難しいのだろうと思ったが、高校に入ったらSFからは興味が離れたので、以来縁もなく今まで過ごしてきた。
 今回久しぶりにこの作家に接したが、「分からない」というより「肌が合わない」のだと分かった。
 面白くなかった。今年原書で読んだSFでは四冊目だったが、ダントツで最下位。SFにもいろいろあるが、これが本当に正統派のSFなんだろうか。科学的な事象を描くのが主眼で、登場人物はそのための駒として動く。P.K.ディックのような、特殊な境遇を設定した上で人間を描く、文学寄りの作品が僕には面白いのだと分かった。
 タネあかしをするとつまらなくなる作品なので内容には触れないが、SFといいつつ非常にオカルト寄りなのも面白くなかった。最後は、昔からアニメ映画などによくある大風呂敷で、ああいうの、昔から受け付けなかったんだけど、これがその元ネタだったとは・・
 文章は平易で、カッチリした論理的な文だが台詞になると難しかった。こういうのはちょっと珍しい。面白いと思ったのは、台詞で誰かが冗談を言うと、ほとんど常に地の文で「そんな冗談を言った・・」と解説が入る。冗談が好きなようだがいちいちこうして説明せずにいられないところ、理系の人らしいなと感心(ちなみに、普通の小説ではユーモラスな部分は説明ではなく、笑えたりするのでそれと分かります)。そしてその「冗談」が読み取るのに一番苦労した部分だった。
 SFにせっかく再接近しているので、基本文献はとりあえず押さえたいと思っているから、読んで良かった。たぶんまた読むことはないだろうけれど・・

9/8(月) 都響・フルシャのマルティヌーを聴く

 サントリーホールにて都響のB定期を聴く。
 曲目等は以下の通り。

東京都交響楽団第774回定期演奏会

指揮:ヤクブ・フルシャ

マルティヌー:交響曲第4番

休憩

マルティヌー:カンタータ「花束」
  ソプラノ:シュレイモバー金城由起子
  メゾソプラノ:マルケータ・ツクロヴァー
  テノール:ペテル・ベルゲル
  バス:アダム・プラヘトカ

 ずっと聴きたいと思っていたフルシャのマルティヌー、今回初めて聴けたのでうれしい。もう何年も前から交響曲を中心に少しずつ進行しているシリーズで、いつも気になっていたのだけれどスケジュールが合わず、一度も聴けずじまいだった。大好きな交響曲第3番を聴き逃したのは未だに悔やんでいる。
 今日は雨の中、少し遅めに出かけていったら気がはやったのか地下鉄の乗り継ぎを間違えてしまい、危うく今回も聴き逃すところだった。さいわい開演時間を少し過ぎてしまったものの間に合い、席に着いて、息を整えているとまもなく開演。前半に交響曲というのは少し珍しいプログラミング。曲の規模の関係なのだけれど、こちらも30分以上の曲で決して小規模ではない。演奏はとても良かった。CDではあまり耳に入ってこない精妙な、幽玄な響きにもハッとさせられた。独特のうねうねした素材の発展も実演で聴いた方がしっくりくるようだ。これはマルティヌーの6曲ある交響曲のうち、5番目くらいにお気に入りの曲なんだけど、今後はもっと愉しんで聴けるだろう。
 それにしても、滅多に実演で聴けないマルティヌーの交響曲を、こうしてほぼベストの布陣で聴くことができたのはうれしいとともに、やっぱり3番を聴き逃したのが改めて残念に思われたのだった。チェコ・フィルも来るたび新世界ばかりやってないでこういうのを持ってきてほしい(まあムリだろうな~)
 今夜の白眉は「花束」のほう。これは本当に面白かった。何に似ているかと言えばたぶんヤナーチェクの「わらべ歌」に一番似ているのだろうけれど、民衆詩に材を取った歌詞はマーラーの「少年の不思議な角笛」を思わせるし、オルフのようでもあるし・・。オーケストレーションは色彩豊かで、時々入るハルモニウムの鄙びた響きもいい。歌は徹頭徹尾現世的で、マーラーのように時々彼岸へ思いをはせたりはしない。男に会いたい一心で弟を毒殺する娘の歌や(「イェヌーファ」的リアリズムではなく、なんだか人を食ったような雰囲気)、刑務所から助けを求める男を家族は見捨てたが恋人が身代金を出してくれた歌とか、働き盛りの男が死に神に出会って有無を言わさず連れ去られてしまう歌など。投獄された男の歌はオケの最後の盛り上がりがすごく、「大地の歌」のようだったが歌詞が「恋人が身代金を出してくれた~」みたいなものなので笑いをこらえるのに苦労した。軽く扮装した児童合唱がニコニコしていて可愛かった。ツクロヴァーさんもクリムトの絵から抜け出してきたようで美しかった。
 これはマルティヌー入門にはベストなんじゃないだろうか。マルティヌー特有の乾いた感じがなく、生気に満ちているのは「典型的」とは言いがたいけれど。帰宅してすぐネットでCDを捜したが、既に所有しているアンチェル指揮のモノラル放送録音しかないようで、どんなマイナー曲でもすぐ手に入る昨今には珍しいことでびっくりした。
 ここは是非、今夜の演奏をCD化して発売してほしい! これくらい世に出す価値のある音源は滅多にない! と強く思われたことだった。

A Fair Maiden

 Joyce Carol Oates の小説'A Fair Maiden'を読了。7/16に読み出したので22日かかった、kindl表示で144ページの短い小説だから、いかに捗らなかったのか分かる。これの前の「モッキンバード」は250ページくらいあったのを、19日で読んだのだから...まあそれだって速いとはいえないけれど。
 ともあれ、読了できただけでも良しとせねばならない。なにしろつまらなかった。。。もう、読み進めるのがかなり苦痛で、GoodreadsやAmazonの評を見るにこれはオーツの作品の中でも評判の良くない作品らしい。それは読む前から分かっていた...のになぜ読み始めたかというと、ひとえにこれが短かったから。短編で魅せられたジョイス・キャロル・オーツだが長編は一冊も読んだことがなかった。読みたいと思っていたものの、どれも結構長いようで、この作家の、読みにくくはないが独特のうねうねした文体を300ページ以上も追い切れるか自信がなかった。ジュブナイル以外ではこの'A Fair Maiden'が一番短いようだったので、悪評の多さには目をつぶって、挑戦してみたのだった。
 話は、貧しい16歳の少女が68歳の金持ちの老人に誘惑される話。ナボコフの「ロリータ」と比べている評が多いようだったけれど、それより谷崎潤一郎みたいな話だと思った。女性側の視点から谷崎的世界を語った話というか。そしてこういう話は、女性側から見ると本当に退屈で、興ざめなものなのだった。こういう類の話は、川端康成の「眠れる美女」を極として、男の抱く幻想が過剰であればあるだけ、そしてそれが現実の関係性からかけ離れていけばいくだけ、奇怪な面白みをはらんでいくもので、女の側から語るとただの援助交際の記録になってしまうのだった。老人への嫌悪と金銭への執着が繰り返し語られ、悲惨な生い立ちと、行方不明の父親への愛惜が語られると、もう、リアリズムそのもののようで、一方の金持ちの老「芸術家」キッダー氏の胡散臭さと存在の軽薄さ、醜さが本当にやりきれなくなった。しかも物語は緩慢に、最悪の方向に進んでいくようだった。。。
 ところが、この小説、最後の最後、最後の2ページくらいになって、ついに老人の幻想が少女の糞リアリズムを圧倒し、異常きわまりない愛と死の世界が溢れ出し、全てを飲み込んで突然ぷっつりと終わりを迎える。これには驚いたし、感動してしまった。
 書評ではまさにこのラストへの苦情が多いのだが、どうもこれをミステリーやサスペンスものとして読んでいる人が多いようで、「落ちがよめてしまう」という批判が多かったのだけれど、これはそういう小説ではないだろう。谷崎的な耽溺の世界にクッキリした落ちなど必要ないし、むしろこれはクッキリしすぎているくらいだと思う。
 下世話な生活苦の話、カネの話、少女を言葉巧みに誘惑して騙す話、犯罪者まがいの親類たちの話、そういった、読んでいて苦痛な、退屈な、薄汚れた埃っぽい話が延々と続いたあとに、いきなり幻想が氾濫するのが圧倒的で、五つ星で評価をつければ一つか、ゼロかなと思っていたのが、いきなり四つ星に格上げされたのだった。さすがは長年のノーベル賞候補作家...受賞できないのもまあ、納得という感じだが。。